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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第89葉 (巻11・2532)

 おほならば が見むとかも ぬばたまの わが黒髪を なびけてらむ

 中西進博士の訳は「通りいっぺんの気持ちなら、誰が見ようとて、漆黒のこの黒髪を靡かせていましょうか」となっています。しかし、わかりにくい歌ですね。博士もそう思われたのでしょう、脚注が付してありました。

 「共寝には靡け、一人寝には束ねる習慣」

 万葉時代の女人は長い黒髪を
っていました。長いといっても百人一首の絵にあるような平安王朝の女人ほどではないのですが、背中ぐらいまではあった。その髪を結い上げたのですが、夜になって寝るときは、結い上げを解いて束ねた。それが一人寝の状態。しかし、男と共寝するときは、束ねもせずに靡かせた。博士の脚注は非常に簡潔ですけど、かみ砕いて言えばそういうことです。
 これで歌意がわかると思うのですが、これでもまだわからぬかと博士はトドメの脚注を付しておられます。

 「あなたの手を待つ」

 これで納得できますね。誰かに見られるかもしれないのに、女が一人で黒髪を靡かせているのは「あなたの手を待つ」という含意があるからだと。「通りいっぺんの気持ちなら、そんなことをしますか」という女の言い分がこれで理解できます。博士の心憎いばかりの脚注には、ただただ驚き、感服するほかありません。

 独り寝の女が黒髪を靡かせる意味がわかれば、次の男の想念も理解できます。

 ぬばたまの 
いもが黒髪 今夜こよひもか わが無きとこに なびけてらむ(巻11・2564)
(彼女は今夜も、私のいない寝床で黒髪を靡かせて寝ているのだろうか)

 この男の場合、愛の確信か、切ない期待か、手前勝手な妄想か、どれかわかりませんけど。



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