放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第94葉 (巻9・1777)

 君なくは なぞ身よそはむ くしげなる くしも 取らむとも思はず

 あなたがいないなら、どうして身を装う気になれましょう。お化粧箱から黄楊の小櫛を取り出そうとも思いません。

 こんな歌をもらったら、クラッと来そうですな。こういうことを一度は言われてみたい。
 「くしげ」は化粧箱のことです。この中にいろいろな化粧道具が入っています。象徴的なのが櫛。女は黒髪を命のように大切にします。丹精こめて櫛でとく。上等な櫛は「つげ」で出来ています。高価な「つげの小櫛」を、この人は常用していたようです。「くしげ」もきっと美麗な箱であったのでしょう。
 「あなたがいないのなら、もう身を装う意味もない」と切り出した上で、自身を美しく装っている美容アイテムを詠み込むとは、心憎いばかりです。
 作者は
播磨はりまの娘子をとめ。この名は、たぶん源氏名。“ナイトクラブ万葉”みたいなのを想像すればよろしい。

 「播磨ちゃ〜ん、ご指名ですよ〜」

 「は〜い、播磨の乙女で〜す」

 店にやってきたのは常連の石川さん。今度転勤することになり、
贔屓ひいきの播磨ちゃんにそのことを伝えにやってきたのです。

 「え〜、もうお会いできないんですか〜、イヤだ〜、播磨、悲しい〜」

 なんてことを“ナイトクラブ万葉”では言いません。目に涙をため、含羞の風情を見せつつ、静かに和歌を口にする。“ナイトクラブ万葉”の女の子は、男の胸に届く言葉を知っている。こんな歌を即興で詠む才気と知性をもっている。“ナイトクラブ万葉”は
蠱惑こわく的でコケティッシュ。今もどこかにあるのなら、ぜひ訪れてみたいものです。



『万葉恋歌』掲載一覧

【これまでのさくら野歌壇】
2007年 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年